红色中国网

 找回密码
 立即注册
搜索
查看: 5303|回复: 3
打印 上一主题 下一主题

日本人对明治维新后满洲国的历史观。 [复制链接]

Rank: 8Rank: 8

跳转到指定楼层
楼主
发表于 2012-7-5 14:58:11 |只看该作者 |倒序浏览
本帖最后由 马列托主义者 于 2012-7-5 15:05 编辑

懂日文的可以参考看看日本人对治维新后满洲国的历史观。

1.认为满洲是清满人的地方,甲午战争后,清国隔让了辽东半岛(满洲)给日本,日本据当时国际规则享有主权,而沙俄德法反对,迫使日本返回了辽东半岛(中国教科书提到清政府为此多赔偿了3000万俩白银)

2,日本人在满洲搞「五族协和」类似于大东亚共荣圈的东西,也类似当前河蟹社会的东西,建设满洲。

3,美国遏制日本,提出门户开放政策

4.日俄战争,日胜,日本重新获得了一些相比于割让小得多的在满洲的权益。

5.发生两件大事,辛亥革命和十月革命,孙中山“背弃”了三民主义,也就是让各民族各自独立出去,而声明所有清国领土皆由中华民国继承,列宁认识到在一国是建不成社会主义所以建立共产国际试图在欧洲实现社会主义,但是欧洲革命的失败导致列宁转向中国,和孙中山联合中国革命,排挤日本势力。

6日本努力争取(包括付出了10万日本人的生命打仗死去的苦心经营满洲地位不稳,日本为此不得不一战,满洲事变(918事变)爆发,直到日本二战败亡。

附:
満州建国の真実(1)建国の高き志「五族协和」/中西辉政(京都大学名誉教授)

PHP Biz Online 衆知(歴史街道) 7月5日(木)12时47分配信

■満洲建国は「明治维新の理想」実现に向けた、最後の1歩だった

日露戦争以降、20年以上も続いた日本の苦难の时代の终わり…それが満洲事変及び満洲建国だった。満洲を経済発展させることでロシアの军事的胁威を排し、 さらにアジアの近代化を目指した児岛源太郎以来の理想は、中国の辛亥革命やロシア革命さらにアメリカの牵制により时代の激浪に翻弄され尽くす。そして日本人は、ギリギリの决断を下すのだった。

◆満洲に掲げられた高き志◆

 昭和6年(1931)の満洲事変とその翌年の満洲建国について、现在、日本人の多くはこんなイメージを抱いているかもしれません。すなわち「関东军が谋 略によって一方的に満洲全士を侵略して、傀儡国家を作り、日本をその後、15年にわたる泥沼の戦争に引きずり込んだ」と。

 しかし、満洲事変と満洲建国を「昭和の侵略戦争の始まり」として否定するのは、全くの误りです。むしろ、これは満洲をめぐって「日露戦争以降、20年以 上続いた日本の苦难の时代の终わり」というべきものでした。だからこそあの当时、ほとんど全ての日本人がこぞって満洲建国に歓呼の声をあげたのです。

 そもそも、日本は満洲の地に元来、正当な领有権を有していたことを忘れてはなりません。日清戦争後の下関条约(1895年)によって、日本は清国から辽 东半岛の全域と奉天のすぐ南までの広大な地域(南満洲の要部)を割譲され、その永久の领有が合法的に认められていたのです。ところが、周知のように満洲への野心を持つロシアが、独仏を诱い武力による威吓によって、それを日本から取り上げ清国に返还させます(三国干渉)。満洲事変を考える时、我々は常にこの 三国干渉の歴史から考えてゆくべきなのです。

 ロシアは、日本から夺った辽东半岛を「租借」という形で、自らの支配下に置いただけでなく、清国领の満洲全土を不法占领し、さらに朝鲜を窥います。日本人の危机感は顶点に达し、明治37年(1904)の日露开戦に至るのです。

 そしてロシアに胜利した日本は、ロシアから辽东半岛の一部の租借権と长春以南の鉄道権益(後の南満洲鉄道=満鉄)を譲渡されました(ポーツマス条约)。 これはロシアが清国から租借していた権益であり、しかも日本は改めて清国と条约を结ぶことで全く合法的に満洲権益を得たのです。このようなことは当时の国际社会では、ごく一般的な行为でした。

 こうして手にした権益も、日本が三国干渉によって夺われた正式の领有権に比べ(鉄道を除けば)、はるかに小さく、また不安定なものでした。それでも日本 は、これを受け入れるしかありませんでした。文字通り国家としての存亡をかけ、しかも10万の日本兵の命と国家予算の数倍ないし10倍の国费を投入して得たのが、これだったのです。

 それゆえ、日露戦争後の日本は、この権益を、至极大切なものとして大事に育てようと决心し、奋闘努力します。

 日本の満洲経営は明治38年(1905)より始まりますが、この时、南満洲鉄道设立委员长となった児玉源太郎は、次のような壮大な构想を描いていました。

 「満鉄を、シベリア鉄道経由で欧州と结び、満洲を东アジアの一大経済基地として発展させる。开発はロシアとも协力し、ロシアにも利益をもたらすようにす る。さらに、各民族の协同による満洲の発展を図ることによって、清国とアジアの近代化にも贡献する」これはもう、いじらしい程の「优等生」ぶりだったと言っていいでしょう。

 満洲での共存共栄を讴い、互いの共通の利益で结ばれた「日露协商」を结ぶことで、「复讐戦」を考えていたロシアの军事的胁威を排するだけでなく、东アジ アの诸民族の连帯、さらにユーラシア大陆をまたいで东西文明の交流を図る…明治维新の理想をこれほど端的に表现した构想もないでしょう。これは、満洲建国时に掲げられた「五族协和」、すなわち満洲人・日本人・汉人・朝鲜人・蒙古人が満洲国の発展のために互いに协调していくという、あの理想の萌芽と言うべきものかもしれません。

使用道具 举报

Rank: 8Rank: 8

沙发
发表于 2012-7-5 15:01:47 |只看该作者
◆日本の命运を狂わせた2つの革命◆

 しかし、その後の日本の満洲経営の道は决して平坦ではなく、むしろ常に危険に晒されていきます。その重大な障害となったのが、明治44年(1911)の 辛亥革命と、大正6年(1917)のロシアの共産革命であり、さらに日露戦争の直後に始まり一贯して日本の満洲における発展を抑え込もうとするアメリカの “门戸开放”という名の「対日牵制政策」でした。つまり、これらを俯瞰して言えば、20世纪前半のおよそ50年间は、満洲をめぐって、日本、ロシア、中 国、アメリカという4者が、その争夺を竞い合う时代だったということです。

 この时、注意すべきは、清朝の灭亡した後、満洲は决して「中国の领土」ではなかったということです。戦前、东京帝国大学と京都帝国大学の双方で东洋史を 教えた矢野仁一は、大正13年(1924)になっても、「清朝の歴史的な形成の仕方から见て、滞洲は元来、支那の领土とは言はれない」(『近代支那论』 103页)と明言していました。

 この点において、辛亥革命の残した今日まで続く最大の问题は「孙文の里切り」にありました。

 革命の対象となった清朝は、そもそも満洲を故地とする満洲族の王朝で、そこを拠点にして中国本土に进出し汉民族の明朝の领土を并呑<へいど ん>したのち、モンゴル、チベット、ウイグルなどの诸民族の住む地域を服属させることに成功しました。以後20世纪まで、清国はあくまで清朝皇帝の下に、汉民族とは互いに対等の形で蒙古族、ウイグル族、チベット族から成る“大清连邦”とでも称すべき大版図<はんと>を形成していたので す。

 ですから、辛亥革命で清朝が崩壊したら、これらの诸民族はそれぞれ独立するのが本来の形だったわけです。

 现に辛亥革命後、孙文は当初、清朝支配下の诸民族は汉民族と対等の立场で独立すればよい、と唱えていました。ところが宣统帝溥仪<せんとうていふぎ>が退位すると、孙文は掌を返して「清朝の领土は全て中华民国が継承する」と宣言したのです。

 当然ながら満洲族の中からも、故地・満洲での再兴を目指す动きが出てきます。そしてこの场合、清朝の王族だった満洲人たちが、自らの出身地である満洲において権益を有していた日本と结びつこうとするのは、当然の动きでした。満洲のみならず、チベットやウイグルを含め、现在も独立を目指す中国の「少数民 族」の运命を狂わせた最大の原因こそ、この「孙文の里切り」なのです。

 これ以後、汉民族が支配する中国(中华民国)は、かつて一度も支配したことのない満洲の地を「中国领土」と主张し、日本やロシアとその支配を争うことになります。
 そして、大正6年に勃発したロシア革命が、中国の混乱に拍车をかけ、満洲の运命を一层大きく狂わせていきます。

 ロシア革命の本质は、「共産主义の输出」にありました。ロシア一国では共産主义は延命できないと考えたレーニンは、诸国の共産主义势力を纠合すべく、大 正8年(1919)に「第三インターナショナル(コミンテルン)」を结成、ソ连の强い影响と统制の下、「世界革命」を目指していくのです。

 当初、彼らはドイツやフランスなど西欧诸国での共産革命を目论み、これら各国の政治や社会の混乱を策します。その财源には、帝政ロシアから夺った莫大な财宝が充てられました。
 コミンテルンの活动の本质は、公然たる运动ではなく、秘密谍报・破壊活动にありましたが、当初コミンテルンによる革命の矛先とされた西欧诸国では、各国の防谍体制がだいたい大正12年(1923)顷には确固たるものとなり、ヨーロッパで共産革命を起こすことは、ほぼ不可能となりました。

 壁にぶち当たったコミンテルンが、次に狙った革命の输出先──それが、袁世凯<えんせいがい>死後、军阀が割拠して争乱状态にある中国でし た。コミンテルンは国民党の指导者・孙文と结ぶことで、「中国革命」の実现を狙います。彼らの大きな目的は、中国での共産主义革命実现もさることながら、中国に大きな権益を有する「反ソ帝国主义」の2大势力、イギリスと日本の「背骨をへし祈る」ことでした。そのための手段としてコミンテルンは、中国で排外 的なナショナリズムを煽る戦术をとりました。

 ここで、孙文による「第二の里切り」と评してもよい、愚行が犯されました。大正12年1月、孙文はソ连のヨッフェと会谈し、中国革命の未来をコミンテル ン路线に委ねることにしたのです。そしてコミンテルンの指导で大正10年(1921)に结成されていた中国共産党の党员が大挙して国民党に加入(国共合作)し、ボロディンなど多数のコミンテルン工作员や共産党员が中国国民党と政府の干部や顾问に就任して、大きな影响力を振るいました。孙文の「三民主义」 の理想はここで完全に里切られたと私は思います。

 ボロディンらの指导と援助でソ连赤军型の强力な军队「国民革命军」が育成され、それを率いた蒋介石が中国の统一を目指して「北伐」を开始します(大正 15年、1926)。その途上ではコミンテルンの指导で、意図的に日本人を含む外国人居留民に対して暴虐の限りが尽くされました。昭和2年(1927)の「第一次南京事件(中国国民革命军によって日英米伊仏など各国の领事馆や居留民が袭撃された事件)」は象徴的です。

 それと并行して、コミンテルンと中国共産党は満洲でも、主として地下活动によって精力的な反日・排日工作を开始します。その结果、それまで平穏だった奉天においても、昭和2年9月、突如、2万5千人もの大规模な排日デモが行なわれ、日本制品と日本企业に対するボイコット运动(日货排斥)が始まります。こ の动きは、またたく间に日本人が多く居住する南満洲の各地に広がって暴力事件が多発していきます。

 つまるところソ连は、南北両方向から日本の満洲権益に袭いかかったのです。

 こうして、中国大陆とりわけ満洲における日本の利権が、大正末には大きな胁威にさらされるようになったのですが、日本の歴代政府は「事なかれ主义」に彻 し、「先延ばし政策」しか、打つ手がありませんでした。そこには、アメリカの存在があったからです。アメリカは、ウィルソン大统领以来、中国や満洲において日本の势力がこれ以上、発展することを何としても牵制しようという政策(门戸开放)を基本方针としていました。

 第一次大戦中、ドイツとの戦争で手一杯になっていたアメリカは、一旦は満洲における日本の「特殊権益」を认めましたが(1917年、石井・ランシング协定)、戦後、ワシントン会议(1921~22年)でその廃弃を日本に求め、日本はこれを受け入れました。加えて同会议において、日本は自らの大陆発展の手 を决定的に缚ることになる「中国に関する九カ国条约」にも调印してしまいました。ここから、満洲をめぐって日本の「隠忍自重」と「自縄自缚」と言われた苦难の道が深まっていくのです。

 戦前日本を代表する东洋史家・内藤湖南は、早くも大正13年(1924)に、目下「日本は隠忍の上にも隠忍して」いるが、「结局は破裂するしかない道を辿っているのである」と喝破し、その原因は、外务省を始めとする日本政府が「支那问题に対しても、米国に叱られるか、ほめられるかということを第一に考へ ている」からだと述べています(『新支那论』)。湖南の予想通り、1920年代末に至って中国国民党が「革命外交」に突き进んだのも、结局のところ、この日本の対米姿势の弱さに、中国としての突破口を见出したからです。

 

使用道具 举报

Rank: 8Rank: 8

板凳
发表于 2012-7-5 15:03:02 |只看该作者
国民政府の外交部长(外相)・王正延<おうせいてい>は、「満鉄などの権益の源である日本との不平等条约は一方的に破弃する」と主张します。これは、不平等条约改正のために明治维新以来、血の渗むような不断の努力を积み重ね、列强との40年にわたる交渉によって、ようやくにしてその改正撤 廃にこぎつけた日本の国民にすれば、到底容认できない、あまりにも胜手无法なものでした。さらにこの顷になると中国各地では笔舌に尽くし难いほどの反日・排日行为が频発しましたが、その火に油を注いだのも、この「革命外交」だったのです。

 こうして日本は、内藤湖南がすでに早くから见通していた通り、満洲をめぐりギリギリの瀬戸际へと追い込まれていったのです。昭和に入ると多くの国民も、刻々と「破裂の时」が迫る「満蒙の危机」を如実に感じるようになりました。
(『歴史街道』7月号より:8月号は7月6日発売<特集>明治天皇)

使用道具 举报

Rank: 8Rank: 8

地板
发表于 2012-7-5 15:21:08 |只看该作者
我只是把日本人的对满洲史的看法罗列一些,不作评论。


使用道具 举报

您需要登录后才可以回帖 登录 | 立即注册

Archiver|红色中国网

GMT+8, 2024-4-20 16:45 , Processed in 0.027441 second(s), 9 queries .

E_mail: redchinacn@gmail.com

2010-2011http://redchinacn.net

回顶部